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第40回 ホモ・サピエンス型世界認識(18)

 所有ということについて 

 本来、外的現実は《指さし》で足るものなのかもしれません。
 しかし「こころ」に怖れ不安が生じたとき、僕は外的現実を内的現実で掴み、「所有」し、その欠如を埋めようという気持になります。
 物を、そして人を――。
 しかしその欠如は実際は、「所有」することでは埋まりません。その欠如とはつまり「原人型世界認識」の欠如につながっています。であるとすると、「原人型世界認識」を再び自分の中に取り戻すには、むしろ握り締めた手を離すことが必要になります。
「ホモ・サピエンス型世界認識」は前頭葉の働きが中心ですが、「原人型世界認識」では側頭葉(ウェルニッケ野+扁桃体)の働きが重要になります。両者は、立脚する部位が違うのです。前頭葉が過剰に働けば働くほど、側頭葉の働きはシャット・アウトされてしまう、ということが人間の脳では起こってしまいます。
 ギュッと握りしめたその(“自我”)をゆるめたとき、外界はまた再びキラキラとした輝きを取り戻しはじめる――ということを、僕は自分の日々の実感から言うことが出来ます。

」というもの――。
 鈴は、古くから「言霊のメディアとして主に儀礼などの場において用いられてきました。鈴という楽器はそもそも、手で握り込まれると「ひびき」を発することは出来ません。鈴は把握されると、もはや鈴そのものの音色を響かすことは出来ません。鈴は決して把握してはいけない――。だからこそ、鈴は「言霊」の媒体なのだ、と僕は考えます。

 同様に、把握する世界認識は、外的現実からそれそのものの輝きを奪ってしまう危険性を秘めています。ものの“声”を聴き取るには、《把握》ではなく、むしろ《指さし》という認識が重要になってくるのではないでしょうか。

《指さし》……鈴が鈴そのものであるためには、握るのではなく、そっと糸でつるしているだけで十分なのかもしれません。



 私は信慈の小さな手を見つめた。
 信慈のふっくらと柔らかそうな手は、まだ幼い子どもの表情を残したままだ。
 私はコーヒーをひと口飲んだ。
 比べて、この私の手は……ゴツゴツとしたこの私の手は……。私のこの手は、いったい今までどれくらいのものごとを把握してきただろう?
 私は今まで、いかにものごとを把握出来るか、そこにこそ力を注いできた。ものごとを把握し、理解出来るということは、いままで、私にとって最も重要な価値だった。
 前へ進んでいくということ――。
 ものごとを把握するということ――。
 この二つこそ、私にとっての価値だった。そう、価値だったのだが……。
 私は文章をパラパラと読み返してみた。
(まさに、私はホモ・サピエンス的な人間だな。原人のこころを失った、頭でっかちの、そんなホモ・サピエンスの見本のような人間だな、私は)
 ゲンジン先生の文章を読んでいると、なんだか急に、忘れ物を思い出したような気持になって、ハッとする。
 ハッとはするが……しかしもうずいぶん私は遠くまで来てしまったから……。その忘れ物を取りに帰ることはもはや出来ないような気もする。

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