第39回 ホモ・サピエンス型世界認識(17)
時系列について ~前へ進んでいく「悲しみ」~
足を止め、夕焼けをぼんやり眺めていると、肩をポンとたたかれ、「何をぼんやりしているんだい。早く先へ進みなさい」。
……
ホモ・サピエンスの世界は、前へ進んでいくことを強く促します。常に「いま・ここ」にとどまっているとしたら、ホモ・サピエンスの世界では生活していくことは出来ません。ホモ・サピエンスの世界は、「いま・ここ」へとどまるだけではなく、前へ進んでいくことを強く促します。
「時系列」ということ――。
この観念は、把握する「ホモ・サピエンス型世界認識」の働きによって発生します。
内的現実と内的現実の間に「つながり」を見出すということは、大脳皮質に蓄えられた記憶と記憶の間に、前頭葉が「つながり」を見出しているということです。
赤ん坊の頃の我が子の記憶。歩き始めた我が子の記憶。そしていま現在、すっかり大きくなった我が子の姿。人はそこに、何か直線状の「つながり」を見出します。
死んでいった者たちの記憶。人はそこにも何か、自分へ連なる結びつきを感じます。また、その「死」はいつか自分にもやってきます。遠くのほうに見えているその「死」の「イマージュ」――。自分の後ろだけではなく、自分の前にも感じられる生きるということの「つながり」……。
過去―現在―未来という「時系列」は、そのような生の記憶の「つながり」から生まれ出てきたものなのではないでしょうか。
昨日があり、いま今日があり、そしてまた明日が来る――。
未来(明日)がある※ということは、「希望」があるということです。一日一日と成長していく我が子の姿は、親の確かな希望です。
※また、この未来という観念は、「もし……ならば、……なる」という「仮定法」を生み出し、ホモ・サピエンスの文化を爆発的に発達させていく要因ともなりました。
同時に、未来があるということは、「いま・ここ」は過ぎ去っていく、ということでもあります。「いま・ここ」に在るものすべては、時の流れとともに過ぎ去っていく。時系列を手に入れた僕たちホモ・サピエンスは、「いま・ここ」の原人型世界認識のみにとどまっていることはもはや出来なくなりました。人は「いま・ここ」にとどまってばかりはいられなくなった。過去と未来を手に入れた人間は、「いま・ここ」の風景がどれだけ美しくても、前に進んでいかなくてはならなくなった。時系列という観念は、ときに僕の背中を前へ、容赦なく押してきます。
「かつて」の記憶と記憶(内的現実と内的現実)を「時系列上」に結び合わせる。
これが僕なりの、把握する「ホモ・サピエンス型世界認識」の定義です。
この世界認識とは、つまり「物語」ということです。物語は、何も小説や映画だけを指しているのではありません。時系列上に「つながり」を見出していくこと、その世界認識自体が「物語」なのだ、と僕は考えています。
僕たちホモ・サピエンスは物語を生きています。昨日があり今日があり明日がある限り、僕は物語を生きざるを得ません。物語とは、ホモ・サピエンスの世界認識そのものなのである、と僕は考えます。
前へ進んでいかなくてはならなくなったということは、「いま・ここ」にとどまっていることは出来なくなったということです。ここに、僕が感じるホモ・サピエンスの「悲しみ」があります。時系列の自覚は、「いま・ここ」の原人型世界認識の喪失にもつながり得ます。
本当は、「いま・ここ」に根ざした喜びがあるからこそ、人は前へ進んでいく力を得ることも出来るのだと思うのですが――。
夕焼けは語る
止まれ
僕は顔をくちゃくちゃにして、歩き続ける
夕焼けは微笑む
止まってごらん、と
僕は言い訳するように、少し足をとめ
空を見つめる
そうすると、かばんに詰め込んだ言葉が、
まるで言葉でなくなって、僕はどうしたらいいか分からなくなる
から、また顔をくちゃくちゃにして歩き始める
いつか、もう進むこともなく
いつまでもあなたの前に佇み続ける日がくる……だろう
それまでは、
まだしばらく僕は顔がくちゃくちゃなまま
でも、あなたが止まれと言ってくれることが僕の慰め
あなたが止まれと言ってくれないと、
いったい誰が、僕たちにそう言ってくれるのか
あなたがそう微笑んでくれるから、
僕も顔をいっそうくちゃくちゃにして、笑うことができる


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