第25回 ホモ・サピエンス型世界認識(3)
「産声」の記憶
原人の時代よりも、さらに未熟な状態で生まれてくるホモ・サピエンスの赤ん坊。「産声」とは、その最も無力なホモ・サピエンスの赤ん坊の、本能的な発話表現でもあります。母親に抱きしめてもらうために、泣いて自分に注意を向けさせる。ホモ・サピエンスの赤ん坊はそれを無自覚に、本能的な力によって行なっています。その赤ん坊の本能的な「叫び」を耳にしたとき、ホモ・サピエンスの母親はどうなったでしょうか。生まれ出た赤ん坊の「叫び」を聴き取ったとき、母親は何を感じ、どういった反応を示したでしょうか。
我が子の産声を聴いたとき、ホモ・サピエンスの母親の中で或る能力が目覚めた――と僕は考えています。その能力とは、我が子の「産声」を特殊に記憶するという能力です。
サルや類人猿は産声を上げない、ということは先ほど書きましたが、一般に哺乳類は誕生の際に産声は上げません。誕生時に大声を出してもし外敵に気付かれると、赤ん坊の命そのものが危ないからです。しかし、哺乳類の中には例外的に産声を上げる動物が(ホモ・サピエンス以外にも)存在します。外敵に気付かれるかもしれないリスクよりも、声を出すことによって自分を母親に認識してもらう利点のほうに重点を置くべき環境にいる動物は、誕生の際に産声を出すようです。
たとえば、カリフォルニア・アシカは産声を上げます。カリフォルニア・アシカは、夜中に集団で出産するようです。よって、赤ん坊は大きな産声を上げ、母親に認識してもらう必要があります。母親は我が子の産声を一度聞くと、完全に記憶して忘れないそうです。そしてそれから以後は、「声」で我が子か他の子かを識別します。
カリフォルニア・アシカの例に見られるように、どうやら産声をあげる能力自体は、潜在的に哺乳類みなが持っているようにも思えます。ただ、実際にその選択をするか否かは、周囲の環境などの要因によっても左右されるようです。ホモ・サピエンスの赤ん坊は、無力な自分の生存のために、本能的に産声を上げる選択をした、とも言うことが出来ます。もちろん、赤ん坊はただ怖ろしくて泣いただけですし、そんな選択を意識的に出来るはずがありません。しかし、ホモ・サピエンスの赤ん坊は本能でそういう選択をした、ということは言えると思います。
さて、我が子の産声を聴いたとき、ホモ・サピエンスの母親の中でその産声を特殊に記憶する能力が目覚めたのだというのが僕の考えですが――。
一度聴いた子どもの産声を母親が「完全に記憶する」ということ。カルフォル二ア・アシカの例に見られるように、我が子の産声を一度聴くと完全に記憶出来る、という能力も、実は潜在的にすべての哺乳類の母親が持っている、というふうにも考えられます。そしてその秘められた能力が、我が子の大きな産声を聴くことによってホモ・サピエンスの母親の中でONになったのではないか……?
こういうデータがあります。
31人の赤ん坊の泣き声を録音し、眠っている母親たちに順に聞かせて、目を覚ますかそのまま眠りつづけるかを観察したところ、23人中22人の母親が、我が子の泣き声を聞いた瞬間に目を覚ましたそうです。他の子の泣き声のときは、それがどんなに悲しげな声であっても眠ったままだったのに、わが子の泣き声がテープから流れるとたちまち目を覚ました。それはわずか出産後3日目に母親たちになされた実験だったようです(『赤ん坊はなぜかわいい?~ベイビー・ウォッチング12か月』 デスモンド・モリス=著 幸田敦子=訳 河出書房新社)。
この小さな実験からも、いかにホモ・サピエンスの母親が我が子の産声を完全に記憶しているか、そしてその「声」に常に(就寝中でさえも)意識を向けているか、ということが伺われます。


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