第14回 原人型世界認識(11)
仮説④ 自分そのものの輪郭の出現 ~“母なる声”に包まれて~
前項の冒頭で、
目の前の存在一つ一つが、それそのものとして輝いている。
「いま」という瞬間が充溢し、自分も自分そのものとして、確かに「ここ」にある。
という感覚にはブローカ野が関わっている、ということを書きましたが、肝心のその点に関して、まだ何も述べていませんでした。よって、これから述べていこうと思います。
よく晴れた空。
湖のほとり。
さわさわと揺れる樹の葉。
頬をなでる風。
かすかに波立つ、湖の水面。
ホモ・エルガステルはひとり外界に接するとき、そこに、懐かしい“母の声”を聴いた……。
先ほども述べました、この《母のあたたかい腕》の外界への拡張――という現象。外界の様々なものの“声”の根底に、“母なる声”を聴く、という現象。
これはつまり、ホモ・エルガステルの脳内において、外界と、幼い日の《母のあたたかい腕》との間に「つながり」が見出されている状態である、と言えます。
具体的な脳の部位で言えば、ウェルニッケ野をはじめとする諸感覚野から入力された情報と、哺乳類的な大脳辺縁系が密接につながっている状態である、と僕は考えます。大脳辺縁系とは、大脳皮質の下の層に位置している古い脳のことを指し、本能や原始的な感情を司っている器官と言われています。

大脳辺縁系の中の「海馬」という部位は、記憶に関する重要な役割を司っているとされています。そのそばにある「扁桃体」という部位は、主に「本能」や「情動」などに関する働きを受け持っています。僕たちが持つさまざまな情動は、この扁桃体の働きと密接です。
扁桃体は諸感覚野からの入力情報を集め、そして植物性神経(副交感神経性と交感神経性)などにその刺激を伝えます。心臓がドキドキする、汗をかくなどの身体の反応も、この扁桃体の働きかけによるところが大きいようです。
アメリカの神経学者ポール・マクリーンはよく知られるように、人間の脳を《爬虫類の脳》《哺乳類の脳》《霊長類の脳》に区分けしましたが、おおざっぱに区分けすると、この大脳辺縁系は中間の《哺乳類の脳》に相当する、ということが出来ます。
大脳皮質から「入力」された情報を、この「哺乳類的」な大脳辺縁系へつなげる重要な役割を果たしているのがブローカ野です。ブローカ野がうまくこの大脳辺縁系に橋渡ししてくれないと――つまりうまく大脳辺縁系との「つながり」を見いだしてくれないと、何らかの「記憶」や「情動」が湧き上がるということも起こりません。
目の前の存在一つ一つが、それそのものとして輝いている。
「いま」という瞬間が充溢し、自分も自分そのものとして、確かに「ここ」にある。
この認識が僕たちのうちに湧き上がるとき、そこにはブローカ野によって見出された、外界と大脳辺縁系との強い「つながり」が存在しているはずです。
自分そのものの自覚とは、「抱きしめられている」という感覚によって出現したのではないか、ということを先ほど僕は書きました。自分という輪郭線とは、母なる腕で抱きしめられているという感覚によって、浮き上がってきたものなのではないか、と。
何かに包まれることで
あたたかな何かに抱きしめられることで、
確かに感じた輪郭線――それが“私”。……
母親に抱きしめられているとき、「安心感」「幸福感」が赤ん坊のうちに湧き上がります。そのとき、最も活性化している脳の部位とは、情動を司る「哺乳類的」な大脳辺縁系(特に扁桃体)であるということは言うまでもないことでしょう。
母親のお腹に、からだをくっつけあって寄り添う子犬たち……。そのとき、彼らのうちでも、大脳辺縁系が活性化しています。からだを触れ合う安心感。母親に包まれているという幸福感――。それらは動物、サル、人間を問わず、哺乳類みな共通のものです。
ただ、外界をはっきりと(名詞的に)認識する能力のない動物は、その幸福感が湧き上がってくるのは、実際にからだを触れ合っているとき――原始的な「触覚」や「嗅覚」が働いているとき――のみです。だからこそ、動物はからだをくっつけあうのが好きです。彼らは折々につけ、からだをくっつけあうことで、その幸福感を湧き上がらせています。
一方、「意識出来る能力」が発生した人間は、たとえ家族から自分のからだが遠く離れていても、外界をはっきりと認識することで――新しい大脳皮質の「視覚」や「聴覚」の働きで――、その包まれている幸福感が湧き上がってくるようになりました。
この点において、人間が動物と異なるのは、その幸福感が、
(包まれている『自分』が、確かに、ここにある――)
という「いま・ここ」の自己意識の「目覚め」へと向かう点です。「動物のこころ」において、その幸福感は、自分もなく他者もない主客未分な一体感へと向かうでしょう。しかし「人間のこころ」において、その幸福感は自分そのものの輪郭の自覚、原初的な「いま・ここ」の自己同一性へと向かいます。ここが、「動物のこころ」と「人間のこころ」の違いです。
大脳辺縁系が活性化しているということは、それにつながる植物性神経も活性化し、結果、心拍の上昇・発汗などからだの変化が見られるということになります。私たちはよく、発汗や心臓のドキドキする高鳴りによって「いま・ここで生きている」という感覚を得ることがあります。この“私”(=意識)の自覚とは、こうした身体感覚をひっくるめての自覚です。
それにしても、なんと喜ばしいことなのでしょう、外界をはっきりと認識することで、“母なるもの”に包まれている喜びが、人間のうちに再び湧き上がってくるようになったとは……!これは、数億年におよぶ哺乳類の長い歴史の、ある一点に起こった「奇跡」と言っていい、と僕は思います。
そしてこの奇跡の背景には、外界そのものと、《母のあたたかい腕》との間につながりを見いだすブローカ野の働きがあります。
(似てる…)(同じ…)(ママ…)
ものが発している“声”と、懐かしい“母なる声”との間につながりを見いだす、ウェルニッケ野(をはじめとする諸感覚野)と、大脳辺縁系との間につながり見いだす――ブローカ野の神秘な働きがあるのです。
目の前の存在一つ一つが、それそのものとして輝いている。
「いま」という瞬間が充溢し、自分も自分そのものとして、確かに「ここ」にある。
この感覚にはブローカ野が関わっている、という説の詳しい説明は以上のようなことです。これが、僕の仮説の第四段階です。
……
ウェルニッケ野(をはじめとする諸感覚野)が感覚する外界――。
大脳辺縁系に蓄えられた幼い日の《母のあたたかい腕》――。
原人の世界認識において、ブローカ野はそれら両者を結びあわせます。何の余計な想いもなく、ただ「つながり」を見いだし、結びあわせます。
「ただ結びあわせよ。……(Only Connect……)」
これこそが、はるか原人の時代から響いてくる、ブローカ野の本当の“声”なのではないでしょうか。


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