第4回 原人型世界認識(1)
8月になった。連日、快晴の日が続いていた。大学のほうはもう授業はないけれど、学生のレポートを読んだりテストの採点をしなくてはならないので、私はほぼ毎日大学に出勤はしていた。
原先生の原稿を預かってから10日ほどが過ぎていた。信慈からは毎日、お父さんもう読んだかと聞かれる。預かった原稿の存在は気にはしながらも、学生のレポートを読むだけで私は手一杯な気持だったし、また正直、読むのが幾分面倒な気持もあった。連日の暑さに、からだが少々バテ気味であったのかもしれない。
が、信慈の催促がうるさいので、大学から帰宅した本日、観念して読みはじめることにした。今日も昼間は蒸し暑かった。日が傾き始めたいま、窓からはやっと涼しい風が入り込んできている。
冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出した。グラスに氷を入れ、コーヒーを注ぐ。まず1杯飲み干してから、また2杯目を注いだ。
グラスを片手に、リビングのテーブルに座る。ここが一番風通しがよく、落ち着く気がする。封筒から原稿を取り出す。私はコーヒーをひと口飲んで、原先生の原稿を読み始めた。
――
原人型世界認識 ~「いま・ここ」に在る喜び~
原志郎
はじめに
朝の光――
窓からそっと、吹いてくる風。
小鳥の鳴き声。
コーヒーの香り。
サワサワと揺れるポプラの葉。
子どもたちの笑顔。
一つ一つの輪郭が、みずみずしく光り輝いている、
いま、この瞬間――。
目の前の存在一つ一つが、それそのものとして輝いている。
「いま」という瞬間が充溢し、自分も自分そのものとして、確かに「ここ」にある。
この当たり前の感覚――。
この当たり前でみずみずしい感覚は、日々の生活の中のふとした瞬間に、僕たちのこころに湧き上がってくるものです。僕たちは日々、自分の用事をこなすことで忙しい。しかしときに、足を止め、立ち止まってみる瞬間があります。歩き続けていた足をふと、止めてみる。そうして目の前の景色を、ぼんやりと眺めてみる。そんなとき、目の前の一つ一つが、キラキラと輝いて見えることがあります。空に浮かぶ雲。頬をなでる風。ビルの窓に反射する太陽の光。そして、子どもたちの笑顔、歓声――。
そんなとき、忙しかった自分のこころが、ホッとしたような、何とも言えない安心感に包まれることがあります。いま、自分が自分そのものとして、確かにここにある、というような喜びに包まれることがあります。
この「いま・ここ」の私そのものという感覚を、僕は「人間のこころ」の、その最も根源的なものとして考えています。今回の文章において、僕はこの当たり前の感覚を、「人間のこころ」を形成する、その最も本質的な部分として位置づけてみたいと考えています。これが、今回の文章の趣旨です。
そのためには、しなければならない作業があります。この当たり前の感覚を「人間のこころ」の本質と位置づけるには、どうして必要な作業があるのです。それは、「人間のこころ」の歴史の拡張――という作業です。
いま、僕は「人間のこころ」と書きました。その「人間」とは、いったい誰のことでしょうか。それはもちろん、僕たち「ホモ・サピエンス」のことであります。しかし、それのみではない。21世紀になったいま、「人間のこころ」について考えるとき、僕はホモ・サピエンスのみをその対象にするだけではもはや足りない、と考えています。
「人間のこころ」について真に考察しようとするならば、その範囲を広げて“はじめの人間”――「原人」にまでさかのぼって、考えてみなければならない。その「原人」から、「人間のこころ」というものがどう形づくられていったのか、ということを考えていかないと、僕たちの「こころ」についての真の考察へは至れないのではないか、と考えているのです。
ですから、これから“はじめの人間”――「原人」にまで視点をさかのぼらせ、そこから順に「人間のこころ」というものについて考えていく、という作業をしていこうと思います。まだまだ考察の途上ゆえ、矛盾した点や論理が飛躍する点、また私が思い違いをしている点も多々見られるかと思いますが、どうぞ寛大なお気持ちで、最後までお付き合いください。


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