仮説⑤「名詞としての言葉」の誕生 ~吸い込まれる“母なるひびき”~
僕たち人間も、もちろん哺乳類の一種です。
哺乳類の特徴といえば、「母乳」と、それを吸うための「唇」です。母乳をこぼさずに吸うことが出来るように、哺乳類は唇から頬にかけての筋肉が発達しています。爬虫類には唇がありません。たまごから生まれ、母乳を吸う必要のない爬虫類には頬や唇の筋肉がなく、口は裂け歯列は露出しています。
解剖学者の三木成夫氏は、哺乳類の象徴音とは「唇音」である、と述べました。唇音とは、マ行の音「マ・ミ・ム・メ・モ(ma・ mi ・mu ・me ・mo)」のように、唇を介して発音される音のことを言います。ネコの「ミャー(mya)」、ウシの「モー(mo)」、ヒツジの「メー(me)」。また、人間の赤ん坊の「ンマンマ(nmanma)……。この「唇音」が、僕たち哺乳類の象徴音である、と。
一方、唇を持たない爬虫類が発するのは「口蓋音」です。口蓋音とは、カ行の「カ・キ・ク・ケ・コ」など唇を介さず発音される音を指します。もし中生代の恐竜の発した音声を再現するとなれば、このカ行の音を考えなければならないだろう、と三木氏は述べます。また、この口蓋音は僕たち哺乳類においても、たとえば「叫び」においてその本性を現すだろう、とも述べています。ただ、やはり僕たち哺乳類の日常を彩る象徴音といえば、この吸乳から出る唇音をおいてほかにはない。そしてこのことは、人間の言葉の発生を考える上でも忘れてはならないだろう、と(『胎児の世界~人類の生命記憶』中公新書 1983)。
言葉の発生を考える上で、吸乳から出る唇音ということを忘れてはならない――。
三木氏はこの点についてそれ以上詳しくは言及していませんが、この言葉は非常に重要な意味を含んでいるのではないでしょうか。言葉の発生と、哺乳類の唇音は密接な関係にある……。
「人間の言葉」――それはいつ、誕生したのでしょうか。
分節化された音声と叫声の中間であるような「原始言語」は、少なくとも原人(ホモ・エルガステル)の時代に誕生していたのではないか、と考える専門家もいます。僕も「人間の言葉」が発生したのは、他でもないこのホモ・エルガステルの時代である、と考えています。
動物と人間を別つ人間独自の言葉、それは「名詞としての言葉」である(と僕は考えている)、ということは既に述べました。その原始的な名詞とは、音声としては、たとえばホモ・サピエンスの赤ん坊の発する「ンマンマ(nmanma)」などの唇音に非常に近いものであったのでないか、と推測できます。「ンマンマ」、「ママ」――。僕たちホモ・サピエンスは母親のことを「ママ(mama)」と呼びますが、もしかするとその起源はとてつもなく古いものなのかもしれませんね。
ただ、僕はこの哺乳と言葉という視点をもっと推し進めてみようと思います。言葉とは、もはや僕たちホモ・ホモサピエンスの存在そのものと切り離すことが出来ないものです。このかけがえのない「言葉」というものの誕生の背後には、劇的な出来事が、百数十万年前に原人の身体に起こっていたのではないだろうか、と僕は考えています。
哺乳類の鳴き声は、基本的には吐き出すことによって発音されます。ウシの「モー」。ヒツジの「メー」、ネコの「ミャー」……など。
しかし、それら鳴き声を成り立たせている唇や頬の筋肉は、本来は母親の乳を吸い出すために発達したものでした。唇とは、そもそもは母乳を「吸い出す」ために発達した部位です。哺乳類特有の鳴き声――「吐き出す」唇音とはその結果、付属的に現れたものである、と言うことが出来ると思います。
哺乳類の「幸福感」「安心感」はみな共通、ということは前項で書きました。母親のお腹に、からだをくっつけあって寄り添う子犬たち。そのとき、大脳辺縁系(特に扁桃体)が活性化しています。自分が包まれているという「幸福感」は、哺乳類みな共通です。
そしてそのときなされるのが「吸う」という運動です。母親に包まれながら、安心しリラックスした状態で、赤ん坊は一心に母親のお乳を吸う……。
人間の赤ん坊が母親のお乳を「吸う」運動は「大脳基底核」の働きによります。
大脳基底核とは大脳辺縁系のさらに下にある部位で、小脳とともに「運動」の調節に深い関わりを持っています。体がスムーズに動くよう調節する役割を担っており、この部位に障害を持つと運動を自在に行うのが困難になると言われます。有名なパーキンソン病も、この大脳基底核の障害によります。

僕たち人間はさまざまな表情をかたちづくることが出来ますが、それもこの大脳基底核の働きによります。僕たちが微笑むことが出来るのも、この部位のおかげです※。大脳基底核は頬・唇など顔面の筋肉と連動しています。つまりその点からも、大脳基底核が「哺乳する力」を司っているということが分かります。
大脳辺縁系の「情動」。そしてその下の大脳基底核の「運動」――。この二つがしっかりと組み合わさることにより、赤ん坊は母親のお乳を吸うことが出来るのです。
※微笑みは、大脳辺縁系と大脳基底核のささやかな、しかし最も原初的な共同作業により生まれます。アルカイック・スマイルという言葉もありますが……。赤ん坊は微笑みます。何かに満ち足りたように、ひとり微笑みます。仏も微笑みます。目を閉じ、そっと微笑みます。それは、言葉になる前の、決して実際の言葉にはなることのない、けれどももっとも原初的な「言葉」であります。沈黙と限りなく親しい――。
つまり、僕の立てた第五の仮説とは以下のことです。
“母なるもの”に包まれているという大脳辺縁系の「幸福感」は、その下の大脳基底核の「哺乳」部位と結びついた。大脳基底核の「吸う」という運動を喚起した。そしてその吸い込む運動に伴って、自然と発音されたものこそ、「人間の言葉」なのではないか――。
その発生時において、「人間の言葉」は、それまでの動物の言葉とはまったく違う脳の部位が関わることによって発声された、と僕は考えます。
仲間への危険の示唆・異性へのアピールなど、多くの生きものが行なう「意思伝達としての言葉」ではなく、犬の遠吠えなどの「こころの異和としての言葉」でもなく、スズメがチュンチュンと囀る「生の充溢としての言葉」でもない。それら従来の「動物の言葉」より、「人間の言葉」はさらに原初的な部位が作動することから発された。つまり、大脳辺縁系のさらに下にある、大脳基底核の「哺乳」部位が――。
それは、顔面の筋肉だけではなく、肺・横隔膜をも使ったダイナミクスな「哺乳」です。目の前いっぱいに満ちている“声”……それは、かたちを変えた母親の「お乳(ミルク)」ということが出来るのではないでしょうか。それを、ホモ・エルガステルは胸いっぱいに吸い込んだ。
すると、付属的に「声」が出た。自分の声帯を通して、実際に「声」が出た。その「声」を、彼は両の耳で聴いた。「声」は、肺に収まった。
(これはなんだ……!?)
それは、まったく新しい感覚だった。ものそのもの(が発する“声”・ひびき)が、吸い込むと、実際にものそのもの(声帯を通した『声』)となって自分の中に入ってくる……。
ホモ・エルガステルはこの感覚を、感動をもってかみ締めた。これが、僕が考える「人間の言葉」の誕生の瞬間です。
ただ、この説明だけでは少々分かりにくいと思いますので、具体的な例を用いてみます。外界に存在する自然物の中で、人間(およびすべての生命)にとって最も大切で根源的な存在である水。ここでは、「水」という名詞の誕生の瞬間に、僕なりに耳を澄ませてみようと思います。

(トゥルカナ湖の衛星写真)
よく晴れた空。
湖のほとり。
さわさわと揺れる樹の葉。
頬をなでる風。
かすかに波立つ、湖の水面……。
東アフリカには、トゥルカナ湖、ヴィクトリア湖、マラウイ湖など大きな湖が幾つもあります。
ケニア北部、エチオピアとの国境に位置するトゥルカナ湖は、南北におよそ250キロ、東西には最大60キロもの幅で広がっており、そこにオモ川、ケリオ川、トゥルクゥエル川などの大きな川が流れ込んでいます。ホモ・エルガステルたちはおそらく、それら水の豊富な湖のそばの洞窟、また湖につながる川のそばの洞穴に、その住居を構えていたのではないでしょうか。サバンナという乾燥した気候での生活において、水源を確保することは彼らにとってなによりも重要であった、と想像出来ます。
そういう意味で、湖のほとりとは、まさに僕たち「人間のこころ」の、原風景であると言うことが出来るのではないでしょうか。彼らホモ・エルガステルは、毎日のように湖のほとりに佇んでいたのかもしれません。それは百数十万年を隔てた遠い昔のことではありますが、しかし僕自身のこころの奥底にも、確かにこの「湖のほとり」というイマージュが存在しているような気がしています。
その湖のほとりに佇む。湖の水に手をひたす。湖に全身を浸す……。
そのとき、ウェルニッケ野の働きにより彼は水そのものの“声”を聴く。この、自身の喉を潤していくものの存在を、はっきりと意識する。それだけではない、ブローカ野の働きによって、その“声”に、あの懐かしい“母なる声”との「つながりを見いだす」。
(包まれている……。)
彼の「こころ」に、再びあの《母のあたたかい腕》に包まれている喜びが湧き上がる――。
そのとき、大脳辺縁系(の扁桃体)が活性化する。その「情動」とは、赤ん坊が哺乳する際に感じる「情動」と類似している。よって、その下の大脳基底核の「哺乳」部位が働き出す。そして彼は(半ば反射的に)吸い込む。自分を包んでいるやさしい“母なる声”を吸い込む……。
チンパンジーに、“pant‐hoot(パント・フート)”と呼ばれる動作があるそうです。「ホッホッホッホッ」と笑い声のような音声を連続して発するこの動作において、声は息を吐く際だけでなく、吸う際にも同じように発せられるのだそうです。これは形態学的に分析すると、「類人猿で息を吸うときに声が出るのは、頭蓋が脊椎に対して直角に位置していないことにより、止むを得ず音が出てしまう」のが理由であるようです(『子どもはことばをからだで覚える~メロディから意味の世界へ』正高信男=著 中公新書2001)。
僕たちホモ・サピエンスの場合、肺を出た空気はのどで直角に曲がって口にやってきます。このような喉頭の構造を持って初めて、僕たちは随意的に息を切ることが出来るようになった、と正高信男氏は述べます。正高氏によると、このような複雑な音声を発することが出来る構造を持っているのは僕たちホモ・サピエンスだけのようです。よってホモ・エルガステルは、音声を発する能力においては、チンパンジーなどの霊長類と似通っていた、と言うことが出来ます。

つまり、彼が吸い込む運動をしたとき、自然に音声も出てしまった。吸い込んだ水そのものの“声”は、実際に彼の声帯を通して「声」となった。
そして彼は、その「声」を両の耳で聴いた。
「声」は彼の両の肺に入った。
それはまったく新しい感覚……
そのときはじめて、彼は水の「名」を知った。……
これが、僕なりに耳を澄ませてみた結果、こころに浮かんできた「水」という名詞の誕生の瞬間です。人間がものの名を呼ぶという行為の、その誕生の瞬間です※。この僕の説が、真実に少しでもかすっているとするならば、「水」という名詞は、人間が母なる存在に限りなく近づいたとき、喜びの中から生まれ出てきたもの、ということになり、そしてそうであることを僕は願っているのですが……。
言葉の誕生とは、苦しみの中からでもなく痛みの中からでもなく、喜びの中からこそ生まれ出てきたものである、ということを、僕はこの文章において微力ながら、主張してみたいと思うのです。はっきりと実証するにはまだまだ考察が足りないかもしれません。しかし、もし僕のこと説が真実に少しでもかすっているとするなら、それは素晴らしくハッピーなことなのではないでしょうか。なぜなら、人間の言葉は他でもない喜びの中から、祝福されて生まれ出てきたということになるのですから。
ヘブライ語では水を「マイーム」といいます。それはまさしく哺乳類的な唇音からなる語であり、そして「ママ(mama)」という語のニュアンスに非常に近い語であります。
「水」という名詞の誕生において、こうも表現することが出来るかもしれません。
湖のほとりに立ったとき、ホモ・エルガステルは「いま・ここ」で自分を包み込んでくれているやさしい存在、「お母さん(mama)」を呼んだ(吸い込んだ)――。
※「人間の言葉」の吸い込み説の、この「哺乳」バージョンの他に、もうひとつ想定され得るかもしれない、と僕が考えるバージョンがあります。それは、吸い込みの「笑い」バージョンです。
「いないいない、ばあ」と言って、母親が赤ん坊をあやすことがよくあります。そのとき赤ん坊は決まって笑います。母親が顔を隠して、「ばあ」とまた顔を見せる。そうすると赤ん坊は嬉しそうに笑います。
人間の「笑い」というものが、大脳辺縁系の活動によって起こると考える神経科学者もいます。この笑いというものも哺乳と同様、古層の《哺乳類的》な大脳辺縁系、そして大脳基底核の活動によって起こる、という可能性も大いにありそうです。
湖のほとりに立ったとき、ホモ・エルガステルは母親の(いないいない……)「ばあ!」を聴いた、そして嬉しくなって笑った(吸い込んだ)――。
(なんだ、お母さんはここにいるじゃないか……!)
吸い込み説には、僕は今のところ、これら「哺乳」と「笑い」の2パターンを想定しています。そのどちらも、あり得たかもしれない、と。この二つでいうと、「哺乳」による吸い込みのほうが発達的に初期段階である、と言うことが出来ます。人間の赤ん坊は、生後すぐ哺乳を開始しますが、笑えるようになるのはしばらく経ってからですから。いずれにせよ、僕が強調したいのは、先ほども述べたとおり、どちらのパターンにおいてもそれは喜びの中で吸い込まれたのではないかという点です。
ただ、僕が推したいのは、やはり「哺乳」による「吸い込み」のほうです。その理由には、この「哺乳」と、また後に述べます「遺伝子変異」ということとの関係があります。
自分の中に「声」が入ってくるとは、どういう感覚でしょうか。
僕たちホモ・サピエンスも、「深呼吸」ということをします。自然の中に身をおいたとき、思わず深呼吸する。深く息を吸う、深く息を吐き出す。肺一杯に空気を入れる。新鮮な空気を肺で味わう。この動作は当時への追憶、その名残かもしれませんし、この際に感じる気持ちよさは当時の“声”を吸い込む気持ちよさに似ているところがあるかもしれません。
また、僕たちホモ・サピエンスは煙草を吸うのが好きです。葉っぱの煙を、「唇」から吸い込む。煙を肺にいれ、その味(ひびき)を味わう。この行為も、はるか原人時代の吸い込む言葉へのノスタルジーなのではないか、と僕としては考えています。先史時代から古くホモ・サピエンスのうちで行なわれていた喫煙という行為は、そういうことを考えると、なんだかとても根源的な行為である気がしてきませんか。一概に、喫煙というものは「体に悪いから止めよう」とは言えないものであるような気がします。(なんて書くと、禁煙を勧める人たちからは怒られるかもしれませんが)。
ともあれ、このホモ・エルガステルの時代に誕生した「人間の言葉」とは、まだ「意味」以前の言葉である、ということが出来ます。意味以前、ものの「ひびき」そのものとしての言葉である、ということが出来ます。
目の前に一本の大きな樹があるとして、この樹にはこういう用途(使い道)があるからこういう名をつけよう、ということではなく、またこの樹は何かのかたちに「似ている」からこういう名をつけよう、ということでもない。ただ、その樹の発する“声”に耳を傾け、その“声”を吸い込めばいいだけ。そうすると、その“声”は声帯を通り抜け、実際の「声」となる。ただ吸い込むことで、自然とその樹は自分の「名」を知らせてくれる。名付けるのではなく、名を呼ぶのです。
それは、僕たちホモ・サピエンスが見失ってしまった「言霊」的な世界です。
「言霊」とは、口に出した言葉がそれそのものとなる、それそのものとなって目の前に存在するという、古代から世界各地で見られる思想のことを言います。言葉には、ものそのものの命が宿っている。言葉とは、生きて、うごめいている。当時、彼らホモ・エルガステルは生々しい言霊的な世界を生きていたのだ、と言えます。
「プネウマ」という言葉があります。プネウマとはギリシア語で、訳すと「風、息、霊、聖霊」という意味となります。ホモ・エルガステルが感じていたものそのものの“声”とは、言い換えれば、ものそのものを包み込むプネウマである、と言うことが出来るのではないでしょうか。言霊の「霊」とは、プネウマということと同意です。
ギリシア語のプネウマという言葉を使うと分かりにくいかもしれませんが、日本にも「もののけ」という言葉があります。もののけ、つまりものの気配です。
ものに宿る、何か気配のようなもの。大樹には精霊が宿り、古い家屋や道具にも精霊が宿る……。いわゆるアニミズム的な感覚ですが、僕の言う「ものそのものの発する“声”」とは、別の表現をすると、「ものそのものの発している何か気配のようなもの」というと分かりやすくなるでしょうか※。ものが発している、何か表情のようなもの……。つまり、もののけ(MONONO‐KE)とは、ものの声(MONONO‐KOE)ということでもあります。
※もののけには「妖怪」という意味もありますが、ここで言う「もののけ」とは、あくまでものの発するかすかな気配(表情、声、語りかけ)という意味合いで、捉えていただけたらと思います。かすかな気配、それはまるで微笑みのような……。
もちろん、ホモ・エルガステルといえど、いつもいつもこの“声”を感じていたわけではないでしょう。サバンナという厳しい環境の中、主客未分な「動物のこころ」に戻っているときも多かったかもしれません。しかし、この認識は不意にやってきます。
無自覚に外界に接しているとき、不意に、「明晰な」喜びが彼のこころを満たす。不意に、彼はものそのもの、自分そのものを自覚する。そしてそのとき、その都度、「人間の言葉」は生まれ出る――。
ホモ・エルガステルの時代になって、人間は「言霊」哺乳類(プネウマ哺乳類)となったのです。
見えるかな
甘いミルク
みずみずしいミルク
感動するミルク
透明なミルク
その 樹の葉のところとか
そこで さわさわ揺れてる 樹の葉のあたりとか
青空 雲から覗く、あの澄んだ青空のへん
夕焼けの あの赤とオレンジ色がグラデーションしているところ
見えるかな
甘いミルク みずみずしいミルク
感動するミルク 透明なミルク
やさしいミルク
見えるかな
そのミルクを一心に吸い込んで
ああ 僕らだって
僕らだって哺乳類!
*
吸い込む言葉とはそういうことか……。うーむ。
私は先月の日曜日の朝、信慈が「お父さん」と吸い込んで言ったときのことを思い出していた。
ゲンジン先生の言う、吸い込む言葉の背後には、このような考えがあったのか。依然として詩的な文章で、客観性には欠けるが、しかしなかなかこの視点は面白い。「僕らだって、哺乳類」か、ふふふ。彼は、子どもたちにどのような授業をしたんだろう。
吸い込む言葉という視点は――たとえそれが事実でなかったとしても――示唆深いものがある。そういう授業を子どもたちにするのは、確かに良いかもしれない。言葉というものがあまりに簡単に吐き出され、それの持つ重みがどんどん失われていっている昨今、このような彼の問いかけは意味があると思う。言葉についてとらえ方も、また変わるかもしれない。私は彼の授業をちょっと、受けてみたいと思った。
私は原稿をパラパラとめくった。途中、気になる言葉があったのだが……ああ、あった。
ウェルニッケ野(をはじめとする諸感覚野)が感覚する外界――。
大脳辺縁系に蓄えられた幼い日の《母のあたたかい腕》――。
原人の世界認識において、ブローカ野はそれら両者を結びあわせます。何の余計な想いもなく、ただ「つながり」を見いだし、結びあわせます。
「ただ結びあわせよ。……(Only Connect……)」 これこそが、はるか原人の時代から響いてくる、ブローカ野の本当の“声”なのではないでしょうか。
この部分の、《ただ結びあわせよ。……(Only Connect……)》という言葉。この言葉を、確か何かの本で読んだ記憶があるのだが……。何の本だったろう。いまはちょっと、思い出せないな。
私はノートにこの言葉をメモしておいた。台所から、瑞恵が包丁で何かを切る音が聞こえてくる。
「ものそのものの発する“声”」ということ――。これを「ものそのものの発している何か気配のようなもの」と言い換えてもらうと、確かに少し理解しやすくなったが……。もしくは、「ものが発している表情」――。
私はふと、母のことを思い出していた。10年前に死んだ母……。私はふと幼い日のことを思い出していた。